しごとなでしこ - SHOGAKUKAN

トルテッリーニの人間国宝、イリス

もうひとつのカステルフランコ

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さて、前回のコラムでは、ヴェネト州にあるカルテルフランコという町にボローニャからわざわざ2時間もかけてラディッキオのフルコースを食べに行った話をしたけれど、実はボローニャの隣にもカルテルフランコというさらに小さな町があって、翌日はこちらを訪ねることになった。二日続けて二つのカステルフランコを訪れるなんて人、イタリア人でもそうそういないんじゃなかろうかと軽く自慢。

なぜこの町を訪ねたのか。それはあるおばあちゃんに会うため。

私のイタリア料理修行において、料理と同じくらい大事なのは、お世話になったマンマたちへの挨拶回り。特に、ボローニャ、モデナ地方は、18年前に初めて料理修行で長期滞在した地だけに、最近はもっぱら挨拶回りだけで一日が終わるなんてことも多い。

18年も経てば、当時のマンマはすっかりおばあちゃんになっているくらいだから、当時のおばあちゃんはといえば、よくぞ生きててくれてありがとうというくらいのおばあちゃんになっているわけで、そんな中でもダントツの最高齢がイリス、93歳だ。

日本を発つ前に、「今度行くよ」と一応電話でお知らせするようにしてるのだけど、
「プロント(もしもし)、イリス?私だよ」と言っただけで
「んまっ。なんてこったい、ニンニ!ニンニだね?」と返ってくる。

ニンニとは、赤ちゃんや子供に対する親しみを込めた呼び方のひとつだ。
そして私が「どう?元気?」と言い終わらないうちに「元気なもんかい。ニンニ、あたしゃもう年をとりすぎたよああ、もう早くあの世に行きたいよ」と張りのある声でまくしてたてる。で、最後に何度も念を押されるのが「M(長男の名)とN(二男の名)も連れてくるんだろうね。よしよし、ブラーヴァ、ブラーヴァ。じゃ、待ってるよ」

うん。このお決まりのやりとりができれば、大丈夫。

イリスとの出会いは、今から20年前。彼女の作るトルテッリーニに魅せられて、私は料理修行を決意した、いってみれば私の最初の師匠かもしれない。

このコラムでも再三紹介している生パスタ、トルテッリーニ、その発祥に関してはボローニャとモデナという隣り合わせの二つの県が「我がボローニャこそがオリジナル」「いや、モデナこそが本場」と張り合っているのだが、“おへその形をしたトルテッリーニ“の本当の由来は、実は二つの県のちょうど中間の、ここカステルフランコであることはあまり知られていない。

なんでも、これにまつわる伝説があって、その昔、ヴィーナスが(とある国のお姫さまがという説もあり)この町の宿屋に泊まることになったのだが、そのあまりの美しさに宿屋の主人が部屋を覗き見したが暗くてへそしか見えない、それでもそのへそがあまりに美しく、その形をパスタにしてみたのがトルテッリーニなのだそう。

その宿屋は伝説上のものにすぎないとしても、今でもカステルフランコにはトルテッリーニの隠れた名店が少なくない。町はずれの畑の中に、その広大な敷地を利用して地元の名士の女主人が営む通称「トルテッリーニの宿」もその一つで、ここで働いていたトルテッリーニ職人こそが、イリスなのだ。

2

知る人ぞ知る、トルテッリーニの宿

20年前、旅行でこの宿に初めて泊まった時に、このトルテッリーニとやらの優しくて、心にしみて、何皿でもおかわりできる味わいに魅了され、日本のイタリア料理屋で食べられないものは自分で習いに行くっきゃない!と料理修行を決意した。いわばそもそもの原点なわけだから、料理修行に来てからもこの宿の厨房に潜入するチャンスを密かに狙っていたわけだが、いざ門を叩くとその敷居は思ったより低かったのは、その女主人が私が過去に何度か客として訪れていたのを覚えていてくれたからだろう。

「あなたのマエストラ(先生)、イリスはこの部屋にいるわよ」

と案内してくれた作業場に一歩入ると、由緒正しき宿の雰囲気とは別世界の「おばちゃんたちの井戸端会議場。4〜5人のマンマたちが、わいのわいのと盛り上がりながらも、作業する手は決して止まることなく、まるで早回しで見てるようなおそろしいスピードでパスタが捏ねられ、伸ばされ…。この中で、人一倍、マシンガンのようにしゃべり、マシンガンのようにトルテッリーニを生み出していたのがイリスだった。

3

イリスたちは私を訝しがるわけでもなく、ごく自然に輪の中に入れてくれたけど、作り方を教えてくれるわけでもないから見よう見まねで覚えるしかない。私がトルテッリーニをひとつ巻き上げる間にみんなは3つ作っちゃうし、なんたって私のはひどく不格好で使いものにならないはずなのに「ノン チェ プロブレンマ(全く問題ない)」といって気にもとめてくれない一方で、どこそこの誰々がどうしたという噂話をふんふんと適当に聴きながすと、すぐさま「あんた、今のわかってなかったね? も一度言うよ」と見逃してくれない。

しかし、このマンマたちと過ごした時間は、言葉を交わしながら必死で手を動かし続けた時間は、どんな厳しい料理修行にも劣らない体験だったと今にして思う。

その後も、毎年訪れてイリスの作業場に上がりこんでは、
「あんた、また旦那を置いてきたのかい?」と怒られ、
翌年旦那と一緒に訪れると、今度は
「なんだよ、まだ子供つくってなかったのかい?」と怒られる。
そしてそのイリスの暗示にかかったかのように、翌年には子供を授かり、生後11ヶ月の時に連れて行くことになるのだが、私の息子を抱っこして「でかした! でかした!」と目にいっぱい涙をためて褒めてくれたイリスの姿が今でも忘れられない。

My beautiful picture

その後、宿の女主人が病気になり経営を人に譲ってしまってからは、イリスも奉公をやめトルテッリーニ作りも引退してしまったのだけど、どうしてもイリスの様子を確かめたくて、彼女の自宅に顔を出しにいくことをずっと続けているというわけだ。

ピンポンを鳴らすと、まずは犬がけたたましく吠え、つづいて「ほら、静かにおしってば」とか言いながら、この世代の人にしては珍しく大柄な体を、のっしのっしとゆらしながら歩いてくるイリスのその目には、いつも、早くも涙が溜まってる。そして窒息しそうなくらいの力でむぎゅっと私を抱きしめるのだ。

私が今まであげたお土産をずっと大事にしていて、毎年送る年賀状などといっしょに、ひとつの引き出しにしまってあるのを、毎回見せてくれる。

10年以上前にプレゼントした魚の形をした小さなおろし金に至っては、電球の傘のところにまるでシャンデリアのように飾られている。

「あんたからもらったものは、ぜーんぶとってあるんだよ。もったいなくて使えやしないさ」

と、ここまでずっと、イリスのセリフをおばあちゃん口調で書いているけれど、実はイリスは私が旅行客として宿に泊まっていたときから一貫して、私のことをTu(あなたという意味の第二人称)ではなくLei(目上の人やお客さんに対して使う敬称としてのあなた)を使う。ニンニ(赤ちゃん)と呼ぶくせに、そしてその口調やトーンも、孫に対してお小言をいうおばあちゃんそのものなのに、人称だけはLeiなのだ。LeiじゃなくてTuで呼んでと何度お願いしても「いやだね。Tuとは呼ばないよ」と拒否し続けていたのは、あの由緒正しきトルテッリーニの宿で、その半生をトルテッリーニ職人として客に尽くしてきたイリスの誇りなのかもしれない。

5

そんなイリスが、がくんと弱ってしまったのは、数年前に旦那さんが亡くなった時だった気がする。

いつものように日本を発つ前に電話した時は普通だったのに、イタリアに来てから挨拶に行く日程を決めようと電話すると、2階に住んでいるお嫁さんが出て、なんと入院してしまったという。

ずっと体調が悪く、内臓の数値も芳しくない。とにかく精密検査のために入院したけれど歳も歳なので決して楽観視できない。そう聞いて、病院までお見舞いに行った。

子供達と3人で病室に入るなり、いつものように、いや、いつもの何倍もの涙を流しながら、おいおいと声をあげて私を抱きしめたけど、その力はとってもか細かったのを覚えている。

この時ばかりは、「今度こそは嫌でも使わないとならないもの」とお土産に持ってきた折りたたみの傘を、「ああ、二度と使うことのないものをあげてしまったかも」と心から悔やんだものだ。

そしてイリスが「かわいそうに、Nはこんなところに連れてこられてびっくりしてるだろう、これでジェラートでも買っておやり」と病室の引き出しから取り出して私の手にぎゅっとおさめたくちゃくちゃの5ユーロ札を、Mが「ママ、これは使わないで絶対にとっておこうね」と、イリスの形見にするくらいのつもりでいたものだ。

そして今回。ものすごく迷ったけれど覚悟を決めてイリスの自宅に電話をする。お嫁さんが出るかもしれない、もしかしたら今電話は使われておりませんと音声が流れるかもしれない、呼び出し音を聞きながらさまざまな不安が交錯する。そしてガチャ、と出た相手の声は

「プロント、どちらさま?」

イリスだ!
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こうして、見事に復活を遂げたわけだけど、93という年齢もあって回を重ねるごとに弱々しくなっていくことは否めない。目ももうほとんど見えないのだそう。長く立ってることもままならない。

それでも相変わらず声には張りがあり、イリス節もまだまだ健在。

「ああM。こっちに来て顔を見せておくれよ。あんたのマンマがなかなか子供をつくらなくてさ、あたしがさんざん説教してあんたが生まれたんだよぅ」

私の手をぎゅっと握るその手で、なぜか私のしている指輪をくるくると回しながら、

「お父さんは元気かい? いつか宿にみんなで来てくれたことを今でも覚えてるよ。足がお悪かっただろう? でも顔の整ったいい男だったよ。お母さんのことはあんまり覚えてないけどさ」

毎回、何をするわけでもない。たった小一時間、会って、おしゃべりして、元気を確かめ合って、たくさんハグして…ただただそれだけ、それだけの幸せな時間。

神様、お願い。お願いだから、どうかこれが最後になりませんように。
と、毎回、祈りながら後にする。

帰り道、ふといつもとひとつだけ違うことがあったのに気づく。イリスの私への言葉遣いがLeiからTuになっていたことだ

大きな誇りという荷物を神様が彼女から下ろしたのか、だとしたらそれは何を意味するのか。思わずそんなことを考えずにいられない。

私にできることはただひとつ。
イリスと過ごした1シーン1シーンを、イリスと噂話に興じた一語一句をいつも想いながら、トルテッリーニを作りつづけよう。イリスの誇りを、そのほんの一端を受け継ぎながら、ひとつひとつトルテッリーニに想いを込めて巻こう。

これからも、ずっとずっと。

山中律子 イタリア家庭料理研究家

慶応義塾大学法学部政治学科卒。電通にてコピーライターとして勤務の傍ら、イタリア家庭料理研究家として活動。毎年、子連れでイタリア各地の田舎を旅し、アグリトゥーリズモや農家のマンマに料理を習う。自宅で料理教室や料理イベントを主催。著書に「トルテリーニが食べたくて」。

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