しごとなでしこ - SHOGAKUKAN

星降る丘の、白トリュフの城

一年でいちばん好きなイタリアの季節は、今

一年のうちで、いちばん好きなイタリアはいつかと聞かれたら、迷わず晩秋と答えるだろう。冬の足音が着々と近づく、そう、ちょうど今くらいの季節になると必ず思い出すシーンがある。

それは、深々と冷える夜更けに、ランゲ地方の小さな丘から見下ろす夜景。といってもきらびやかなイルミネーションではない。昼間のぶどう畑とは一変した、深い深い闇に包まれた丘陵の一つ一つの丘の頂きに、まるで空から星が落ちて来たみたいに、ぽつり、ぽつりと瞬く村の灯り

長っ尻の最後の客が帰らないまま厨房では床掃除が始まり、モップを洗いにひとり寒空の下に出て、はーっと自分の息を吐き出すと、真っ白になって神聖な闇の空へ吸い込まれて行く。日付が変わるまでくたくたになって働いた一日の最後に、神様がくれるご褒美のような瞬間を今でも思い出す。

イタリアの北西部、フランスと国境を接するピエモンテ州。なかでもこのあたりは、かの有名な赤ワインの王様、バローロやバルバレスコの産地であるとともに、もうひとつ、世界に名だたる高級食材の産地でもある。それは白トリュフ。同じく秋の味覚の代表格であるポルチーニより何倍も貴重で、しかもこの地域が世界で最も高品質と言われている産地とあってシーズンの10月〜11月には、海外から多くの食通たちが集う。そんなランゲ丘陵の中でも、ひときわ小さい村の頂にあるこのカステッロ(城)のリストランテの厨房に初めて飛び込んだのは、今からもう16年も前のことになる。01

地元の名士でワイン作りの先駆者の一人だった先代が、戦前にサヴォイア家から買い取った広大なぶどう畑と古いカステッロ。その遺志をついで、女三姉妹が、それぞれホテル支配人、カンティーナのオーナー、リストランテの料理長としての役割を分担しながら守り続けている。三女リッリがつくる正統派のピエモンテ料理に魅せられてしまったのは、その前の年に宿泊客としてたまたま訪れた時のこと。中でもラスケーラという名物チーズのリゾットに白トリュフをふんだんに載せた一皿がどうしても忘れられず、勇気を出して「料理を勉強させてほしい」と手紙を書いて実現したのだった。

02

貴族の血を引く一族の格式高いカステッロにもかかわらず、その敷居は驚くほど低かったけれど、しかし実はここほど緊張した場所はない。ピエモンテ人特有の口数の少なさの上に、あまり笑顔を見せない姉妹たちだったこともあるけれど、なんといっても、入り込むタイミングがまったく掴めないのだ。
口数も少なくクールな三女、リッリをチーフシェフに、それを支える賄いのおばさん二人の、長年積み上げられてきた彼らの持ち場がしっかりできあがっている。

つねに白トリュフの香りが充満する厨房の角に、2〜3日、立っているだけの日々を送ったあと、意を決する。よし。なんでもいいから手を出してみよう。

とりあえず、今の現場の流れを妨げない作業はなんだろうと厨房を見回してみる。きりりとした表情でガス台の前でまさにリゾットの仕上げに入ってるリッリ。前菜用カルパッチョをものすごいスピードでスライスしているこっちのおばさん。あっちでは、もうひとりのおばさんがなんだかよくわからないけどお湯の入ったボールに浸かっている大量のマスカットの皮を、ひとつひとつ丁寧にむいている。うん、これなら足引っ張ったところで大事には至らないだろう。そそそと横に忍び寄って、小さな声で言ってみる。

「…ファッチョ イオ…(私、やります)」

おばさんは一瞬手をとめてチロッと私を見ると、初めてにっこりと笑った。

「ファイ トゥ?(あなた、やるの?)ふふふ、いいわよ」

彼女の手元を見ながらそのスピードに必死でついていくと、私が聞くより早く

「これはね、ファラオナ(ホロホロ鶏)と一緒にソテーするのよ。その前にこうしてコニャックに漬け込んでね…」と突然作り方を説明し始める。

メモを取る間もなく今度はもう一人のベテランのおばさんから声がかかる。

「ちょっとー、こっちにも来てくれない? これ手伝ってほしいんだけど。ねえねえ、なんだっけあなたの名前。リ、リ、リ…」

「リツコです。でもリッツでいいです!」

すると背後から「じゃ、リッツ。はい、これ被りなさい」

振り返ると、ガス台の前にいたはずのリッリが厨房スタッフがかぶる衛生帽を持って立っているではないか。こうして私の修行は始まったのだ。

03

念願のリゾットをマスター

それからというもの、とにかく死ぬ気で手と体を動かした。毎回のことだけど、ただの有給休暇をまとめ取りしてイタリアに来ている私には、学べる日数は限られている。リッリと二人の賄いのおばさんたちは、シフト制で厨房に代わる代わる入っていたけど、私は朝から夜中までぶっ通しで、いったい自分の体のどこにこんな体力と根性があったのだろうと自分でも信じがたいほど、厨房で立ち続けていたものだ。

ヘーゼルナッツの皮をひたすらむき続ける気の遠くなるような作業から、ジャガイモの皮むき、スライサーの掃除、迷惑のかからない仕事にはなんでも手を出しつつ、彼女たちの料理の行程を目で見たままにノートに走り書きしていると、そのうちあっちから「リッツ、この作り方教えてあげるわ」と声がかかり、今度はこっちから「リッツ、これ、しっかり味見して」と声がかかる。

しかし、私が一番憧れていたリッリが担当するリゾットにだけは、なんというか、彼女の聖域のような気がしてどうしても近寄れない。

それでもあきらめきれなくて、彼女がリゾットにとりかかると、まるで背後霊みたいにリッリに近づいて背中越しにその手元を盗み見しては、手順や、分量の目安をこそこそとノートに書き留める、というのを何日繰り返したろう。あるとき、突然リッリがくるりと振り返り、

「Tieni!(持ちなさい!)」と木べらを私に託したのだ。

え? これって、どうしろってこと? リッリはたった一言「それ、二人分だからね」と付け加えただけで、あとは別の鍋のもとへ去ってしまい目を合わせようともしてくれない。そこから先は、密かに頭の中に叩き込んでいた分量と手順を必死になぞりながら仕上げたことだけは覚えているが、あとはなぜだか全く記憶から抜け落ちている。

翌日、三姉妹の長女である女主人リゼッタから「リゾット、マスターしたんですってね」と声をかけられる。気恥ずかしくも飛び上がるほど嬉しかった。

それにしても一年で一番の繁忙期に、よくぞこんな素人の東洋人を迎え入れてくれたものだと、思い出すたびに彼らの懐の深さに感謝せずにいられない。

最後の日は、賄い飯としてラスケーラのリゾットを私が作ることになった。

女主人のリゼッタが、お客さん用の白トリュフをおもむろに取り出して、私のリゾットの上に、シャッシャッシャ…と贅沢な音を立てて山盛りにすりおろしてくれたことも、ついこの間のことのように覚えている。

04

あれから16年。気がつけば今年も白トリュフの季節だ。

子供が生まれてからも、このカステッロに2〜3年に一度は訪れているけれど、学校に上がってしまうと秋に渡伊することはなかなか叶わない。また、毎回中途半端な料理修行に甘んじていて、恩返しどころか、ただの図々しい親子客として転がり込んでいるといったほうが正しいくらい。

でもいつの日か息子達も、私の料理修行に付き合ってくれなくなる日が、寂しいけれど必ず来るだろう。そしたらその時は白トリュフの季節に、迷わずここを目指そうかな。存分に深夜まで働いて、ひとりモップを洗いに外へ出ては、夜空に向かって思い切りハーッと息をはき、世界一美しい闇に吸い込まれていく時間を楽しむとするかな

山中律子 イタリア家庭料理研究家

慶応義塾大学法学部政治学科卒。電通にてコピーライターとして勤務の傍ら、イタリア家庭料理研究家として活動。毎年、子連れでイタリア各地の田舎を旅し、アグリトゥーリズモや農家のマンマに料理を習う。自宅で料理教室や料理イベントを主催。著書に「トルテリーニが食べたくて」。

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